机拭いた後の雑巾みたいな、

死にたいとか言わない

知識や教養、機知や頭の良さなんて恋人がいなけりゃ価値がない

受験勉強は意外と教養の宝庫でもあって、色々と興味深い事を教えてくれる。例えば現代文では以下の主題について一応の答えを提示する。

「教養とはなにか」「患者が最後まで希望を持つことができるためにはどうしたらよいか」「小説を小説たらしめるもののはなにか」「親しい人々の死の受け止め方は歳とともにどう変遷するか」「最近の小説は何故つまんないのか」「最近の仕事はなんでつまんないのか」「芸術とはなにか」「宗教とは」「如何にして生きるべきか」・・・などなど。挙げればキリがないくらい。

古文では、人間の下らなさ、救いの無さを学ぶことが出来るし、漢文では小学校の先生がするみたいなお説教を聞くことが出来る。

倫理では、歴史が始まってから今までの哲学者たちの思想をざっと教えてくれる。ストア派実存主義功利主義も合理論も経験論もロマン主義も、プラトンアリストテレスデカルトもカントもヘーゲルキルケゴール聖徳太子も、ホントさわりのさわり位なのだろうが、一応一人ひとりの性格、雰囲気のようなものを知ることが出来る。それによって原典(翻訳された)も読んでやろうかという気になるし、そもそもそのちょっとした紹介自体が面白い。人間疎外だとか西洋人たちの理性崇拝とか色々。

世界史では、現代社会がどんなふうにして生まれたのか、人間がかつてどんな生活を送ってたのかについて一応自分のイメージを抱けるようにしてくれる。私見では現代社会は、人間とは到底思えない野蛮な西洋人たちが適当に欲望に任せ暴力によって無計画に作り上げたダメダメ社会であり、そして大抵の人間社会は、いつだって無くもがなの悲しい営みであり続けてきた、と言える。

英語では、難解な英文の読解でパズルのような楽しさを得ることができるし、その和訳で表現の苦しみ、楽しみを味わえる。また英文の内容も印象深いものが多数ある。面白い。例えばモンテーニュはこう言いました。「人を物知りにはするが賢明にはしない教育など、全く馬鹿げている」”Education that makes us learnd but fails to make us wise is, in my scheme of life, quite simply absurd." 僕にはこれを普通に授業で使ってしまう先生の気が知れない。恥を知れ。英作文では異国の表現を知ることで、日本語について深く知ることが出来る。外国語を知らないと、日本語を客観視することは難しい。比較なしで特異性を見出すのは至難の業だ。あと課題文がまた面白い。「パリの空港で、トランクに腰掛けた1人の男性が、ぼんやりと頬杖をついていた。私が「どうかなさいましたか。どこかお加減でも悪いんですか」と聞くと、「いや、いま遠くからついた所なんですけどね。身体は着いても、心はまだなので、ここで心の到着を待っているところです。」という答えがかえってきた」なんてものを訳させようとする。夏目漱石の「こころ」を持ってきて、ここ訳せなんて言ってくる問題もある。

 

そして最も興味深いのが、こうした興味深い人生についての知識を色々と仕入れていても、全然幸せにはなれない、ということ。教養や知識は僕の助けにはならないのかもしれない。