机拭いた後の雑巾みたいな、

死にたいとか言わない

いかにして黒歴史が生まれるか

体験するものは書いてはダメだと言われます。芸術家ならば冷えきった目でどれを見つめ、描き出さなければならない、と。

文豪でさえ、思春期を描くのはしばしば大人になってからです。もちろんウェルテル等例外はいくらもあるでしょうが、例えば、神学校で苦しんだ学生ヘッセはなぜその場で車輪の下を書かなかったのか?熟成、客観性が必要だからです。少し離れて見なければならない。

体験を創作に昇華させるには、例の冷えきった目がいるが、その体験の素材を生み出すのは主観的な感動である。僕は別に創作なんてしなくたっていい。僕の感動がその性格の必然から他人にとって失笑ものであったとしても、構わない。

 

ある体験をしたとする。数日後それを思い返し、何か感じたとする。以後、その体験を思い返して浮かぶ記憶は、その数日後の追憶である。体験そのものではない。だから僕は、体験を美化し過去が素晴らしい物だったと自分を欺くために、なるたけ美しい形で追憶したい。